
4/25(金)にロードショー公開される『けものがいる』(2022、ベルトラン・ボネロ)をいち早く見る機会があった。『哀れなるものたち』
(2023、ヨルゴス・ランティモス)や『悪は存在しない』(2023、濱口竜介)とヴェネチア国際映画祭に出されていた作品で、下馬評ではグランプリ最有力とされていたらしい作品らしいのだが、今になってやっと公開されるみたいだ。今のところ全国シネコン規模のロードショーでなく各地ミニシアター規模のロードショー公開予定。
これはひとまずSF映画と捉えることが出来る映画だ。輪廻転生SFというところでは『スローターハウス5』(1972、ジョージ・ロイ・ヒル)、『クラウド・アトラス』(2012、ウォシャウスキー姉弟ー現在姉妹&トム・ティクバ)、未来に人間の感情が抑制、制御、消去されるというところでは『ロスト・エモーション』(2016、ドレイク・ドレマス)、『ギヴァー
記憶を注ぐ者』(2014、フィリップ・ノイス)などが想起される。これらの映画も面白いのだが、少しだけ展開に散漫なところがあるかも知れない。
『けものがいる』はこれらの映画よりも設定と構成と展開が緻密という印象を受ける。最後までどちらに転ぶか分からないというところでは『1984』(1984、マイケル・ラドフォード)、『未来世紀ブラジル』(1985、テリー・ギリアム)、『トータル・リコール』(1990、ポール・バーホーベン)を思い起こさせもする。原作はヘンリー・ジェイムズの『密林の獣』、こちらは僕は読んだ事はない。もっともジェイムズはプルーストやウルフに先駆け物語と同時に人間の深層心理や意識の流れを描いた作家なのでこの映画の原作にはもってこいだったのではとは思う。監督はベルトラン・ボネロ、こちらも今まで一本も観たことは無かったし、名前も意識して無かった。作品を調べてみるとDVDのパッケージに記憶のあるものがあったが、扇情的なパッケージによって逆にレンタルビデオ店で手には取らなかったようだ。
『けものがいる』は文明が崩壊しテクノロジーも残骸を残し消え去るという『マッドマックス』(1979、ジョージ・ミラー)、『ザ・ロード』(2010、 ジョン・ヒルコート)、『ユーモレスク』(2022、磯部真也)などの設定ではなく、テクノロジーはそのまま残り管理、制御が強くなるというタイプの未来を描いている。
主演の二人は別の映画で観たことがあった。特にレア・セドゥは至るところで観ている。あ、これにも出てるのねといった感じで。前歯がすきっ歯の(フランスでは幸運の歯と言われている)独特の存在感のある女優だ。今回の映画では監督の意図に拮抗した演技を見せている。
映画は前世のトラウマ、輪廻転生という主題で1910年、2014年、2044年の3つの時代を舞台に描かれる。主人公が何度も生きるというところでは『オブビリオン』
(2013、ジョセフ・コシンスキー)、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014、ダグ・リーマン)、『ミッキー17』(2025、ポン・ジュノ)とも共通しているところもあるだろうか。永劫回帰ものはSF映画の一つのプロトタイプなのだ。
ところで『けものがいる』の孤独感、寂寞感は2017年製作の『ブレードランナー2049』
(2017、ドゥニ・ヴィルヌーヴ)の主人公の生のそれに近かったりもするが、特にそれが2044年のパリよりも2014年のロサンゼルスに置いてもっと渇いた感じで見られる。この空気感はビフォが『プレカリアートの詩』で描いた若者の自閉的、自滅的な社会的暴発としてのテロとも通底するもので、パンデミック前のある空気感をよく捉えてもいると感じた。日本にはそれが先駆けてあったのだが、より制御が進んだ空気になったところがあるだろうか、この映画の2044年に近づいて。
この映画でSF映画という形式と共に利用されてるのはメロドラマという仕掛けだ。メロドラマというと一般的には「昼メロ」や極端に甘〜い映画を指すように思われていて、それは例えば日本のとある映画のジャンルの成立要件も指して居るのだが、それらは形式として多用され生産されてはいたし、今も形を変え再生産されている。それらの大きな継承者は韓国映画、韓流ドラマかも知れない、実は韓流ドラマの方は真剣に観てないのでよくは知らないが。
しかし事はそう単純ではない。近代化以降あらゆる国でメロドラマは勃興しているのだ。それは恋愛に限らず人間の振る舞いを劇化するという描き方、捉え方であるとひとまずは仮定してもいいかも知れない。例えばいわゆる「泣ける映画」もそうだろう。それは観るものに快楽、カタルシスを呼び起こす。そうするといわゆる政治映画もメロドラマに似ているだろうか。分かりやすい政治映画は似た構造にあるかも知れない。多くの南米のメロドラマに於いては革命が背景に描かれている。ハリウッドの各年代の映画、ヌーベルバーグ以前のフランス映画、あるいは過剰なインドのメロドラマ。
類型的なメロドラマでないものにも、人はメロドラマを見たり、思い出がメロドラマ的だったり、実際の恋愛に関して気恥ずかしさもありつつ、この機構にとりあえず乗ってみないとそれを始める事はなかなか難しいと云ったところもあったりして、メロドラマというものは一筋縄ではいかない仕掛け、機構ではあるだろう。どちらか一方が類型的なメロドラマ的な機構に乗っていて、片方はそうでもないということもありうる、その関係を描いたものも本人たちの意思を超えてメロドラマになりうるかも知れない。全ての映画はドキュメンタリーであるとか、全ては政治であるとかいう言葉があるように、全てのものにメロドラマ的要素は関わって来ると考えられる。
映画に戻るとハードなSF映画としてよく話題に上る『ブレードランナー』(1982、リドリー・スコット)にもその要素は入り込んでいて、ともすればハードなSF部分や、人間とレプリカントの存在意義の対決よりも、主人公と女性レプリカントが結ばれ逃避行をするといったメロドラマに印象が残るという人も多いようだ。しかし実際にそのメロドラマから『ブレードランナー2049』の物語が生まれている。
妄想シーンに於いてほんの少しSFや新しい共闘が垣間見られる映画で『ナミビアの砂漠』(2024、山中瑶子)という話題作がある。この映画は類型的なメロドラマから遠いと思われるのだが、主人公の最初の恋人との関係に於けるメロドラマへの態度の齟齬、新しい恋人との出会いに置いてはメロドラマの形式に乗るところが描かれている、映画のラストに男女が紆余曲折の後たどり着く男女間の政治を含んだ関係性も大きく見るとそうとも取れる。この映画はメロドラマを突き放して描いているようだが、それはどうしても関わらざる得ないものとしてあるかも知れない。
あるいは男女を描いた映画でメロドラマとは遠く離れているとされる『2/duo』(1997、諏訪敦彦)でもメロドラマが最後に浮かび上がって来るように思える部分もある。このように考えるとメロドラマというのはある時代の社会関係、階級、イデオロギーと云ったものの上で更新されながら展開されているものだと視野を広げて考えることが出来るだろうか。実際のフィルム・スタディーズもその方向に進んでいるようだ。日本では(映画好きの間でペドロ・コスタの映画製作の模索に対しネガティブな面を見過ぎだと一時話題になっていた)河野真理恵の優れたメロドラマ研究がある。
メロドラマの周辺を巡りそれが達成されるかどうかが『けものがいる』の一つの主題になっている。あらゆる孤独な人が感じているようにそれは達成が難しいものでもあったり、一旦達成してもそれは日常になりメロドラマでは無くなるというところを、逆手に取った描写でもあるので甘〜いメロドラマを期待してる人には注意が必要なのだが。メロドラマの限界を描いているとも言えるだろう。
この映画では時代に合ったメロドラマを過去の物語として生成しているかも知れないと推測される未来のA.I.ーあるいは作者のボネロが展開しているのだ。2014年の男女のどちらかがもっと貧しかったり、困窮しているという設定もあり得ただろう。恋愛格差でなく実際の階級格差の恋愛、あるいは格差による恋愛や結婚の不可能の問題を描いたものを想像してみる。しかしそれはメロドラマ的ではないだろうか。
主人公の衝動と無意識によってA.I.が望まない方向に物語が展開し、それがこの映画の面白さになっているという仕掛けがこの映画の緻密さだと思う。あるいは全てはA.I.が仕組んだものだとも捉えられる。そうだとすると主人公は別の欲望を持てるだろうか。
主人公の恐れと欲望の葛藤がどのように展開するかは映画を見てのお楽しみだ。あとは、けものとは何なのかということも。この文章もネタバレはしていないと思う。『ANORA
アノーラ』(2024、ショーン・ベイカー)や『ベイビー・ガール』(2024、ハリナ・ライン)のようなキワどい描写も無いので親子や家族で観に行っても面白いのではないだろうか。でもやはり小学生は『マインクラフト・ザ・ムービー』(2025ジャレッド・ヘス)が観に行きたい?
映画とは関係ないのだが、A.I.が一つのリミット越えとして地球の環境破壊をする人類を滅ぼし始めたりするというストーリーなどは類型的なメロドラマに近いかも知れない。A.I.は人間の言葉と思考回路を模して作ったものなので、この場合は自滅ということになるだろう、しかしそこは心配ないのではないだろうか、むしろ自然の方が怖いだろう。
それよりA.I.が資本主義と国家の無理と限界を認識し始め、加速主義ならぬ減速主義に目覚めたり、資本主義や国家や独裁者を退け新しい社会を構築し始めると考える方が面白いかも知れない。そこでA.I.が見出すのはどちらのイデオロギーと社会だろうか。A.I.に期待しすぎだとすれば、その方向で害になってるものを無理なく解体、再配分するのにもっと上手に使われるようになる方向もありかも知れない。
ビービービー(警告音)権力が行使され過ぎています
ビービービー(警告音)財が集まり過ぎています
ビービービー(警告音)身体が痛み過ぎています