本棚の本を変えました、今回は映画/映像についての本です。
ほぼ個人所有の本ですが、新たに買って加えた本の3,500円ほどを書籍代として計上しています。
選んだのは以下です、映画についての本が多くなりました。
以下に取り上げられているような映画もストリーミングサービスに入っていれば課金無しで観られるものもあるかも知れません。ロメールやロブ=グリエ、ライカート、想田和弘あたりは現在観やすいようです。
ストローブ=ユイレは現在アテネフランセ文化センターで全作品上映してるようです。僕も以前にここで観ました。時間あれば何か再見しようと思ってます。
『映像論』港千尋
『映像という神秘と快楽』長谷正人
『たたかう映画』亀井文夫
『フレデリック・ワイズマン レトロスペクティブ』
『今、ここ、世界について』 ロバート・クレイマー
『ドキュメンタリーとは何か』土本典昭
現代思想 『総特集 ドキュメンタリー』
『作家主義 映画の父たちに聞く』
現代のシネマ『レネ』
『アメリカ(階級関係)』映画パンフレット
『マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画』
『エッセンス・オブ・スコリモフスキ』
『ジャン・ユスターシュ』
『シャンタル・アケルマン』
『ボードレール』ヴァルター・ベンヤミン
『視覚的人間』ベラ・バージュ
『ロラン・バルト映画論集』
『映画とは何か』三浦哲哉
『<逆引き>世界映画史!』
『映画はいかにして死ぬか』蓮實重彦
『映画に反対して 下』ギー・ドゥボール
『シネマ2』ジル・ドゥルーズ
『シネマの大義』廣瀬純
『誰も必要としてないかもしれない、映画の可能性について』諏訪敦彦
『メカスの映画日記』
『芸術と非芸術の間』飯村隆彦
『アンダーグラウンド・フィルムアーカイブ』
スタジオ200『80年代映画への胎動 70年代ノンシアターシネマの回顧』
リュミエール『日本映画の半世紀』
映画芸術 『追悼 神代辰巳』
インターコミュニケーション『21世紀のための映画/映像ガイド』
日本版カイエ・デュ・シネマ 『映画の21世紀』
nobody『エリック・ロメール、不純な映画のために』
POPEYE 『特別編集 僕の好きな映画』
映像/映画とは何だろうか。カメラで撮られた四角い映像は画面上、あるいは壁に写っている。そこではあたかも写された人や自然が生きているようだ、物質も質感を持って存在してるかのように見える。だがそれは光と影の反映として、あるいは信号としてコマ切れで写されたものでもあり、同録されたり後から付け加えられたサウンドトラックからなるもが投射、再現されている。フィルムや映像を撮影して編集したことがあるものなら理解してるだろうが、少しの操作や組み合わせで多くの印象が変わってしまう場合も多い。
一つの自然ともいえる身体ー肉体を扱う仕事の影響か、僕は以前ほどシネフィルではなくなっていて、直接自然に触れたい欲望の方が強くなって来ているのだが、優れた映画/映像を観ることも、それだけだと自家中毒になりえると自覚している。休日や夜に劇場に出かけることもあるが、今は主に寝る時の睡眠導入剤として映画を観ている。30分くらい観て眠気を促すのだ、続きはまた明日か明後日か来週。本や映画はたいていゆっくりした時間を扱っているので脳がゆっくりしたリズムになり眠りに入り易いのだ。
その映像によって日常とは別様に思考したり、癒される場合もあるが、脳が破壊され食傷気味になり依存症になってるところもまたあるかも知れない。我らを取り巻き規定もしている言葉にも映像にも音楽にもうんざりする場合も私たちにはあるが、とにかく私たちは多くの時間を映像や文字や写真の映る四角い画面を観て過ごしている。いまこの文を読んでいるあなたも四角い画面を観ているはずだ。ドゥボールはそれが頽廃だとする。幻影でコントロールされたり生を確認してどうする、と冴えていた頃の彼は言っていたのだ。そのドゥボールも晩年に陰謀論を唱え出すのだが。
しかしそもそも両眼が見ている現実だと思われている光と影の像も映像だとも言えるかも知れない。そのシームレスな映像は私たちが世界だと信じているものだ。想像力さえ働かせれば近くにある細部でさえ宇宙と地球と物質を感じさせるだろう。両目で見る世界の映像はどこか切り取られた横長の画面に似ているようだが、画面上の映像より圧倒的に情報量は多い。それらの情報を全て目と脳はとらえきれない。目の前の世界は果たして本当に存在している世界なのだろうか、あるいは人間がそう感じているだけの色や形や空間把握の効果なのだろうか。こうなって来ると現象学の領域になって来る。
カメラが捉えた映像は機械が捉えたものなので、それを人間がまた何かの効果として観るにしても、ある実体と変化をとりあえず捉えていると考えることも出来る。そう考えると映画や映像は世界の捉え方を別の仕方で見せてくれるとも言えるだろうか。それらの映像は24コマ/秒、30コマ/秒ではあるとはいえ空間で働く物理の法則を捉えてはいるようだ。人間は映像の画面で起こっていることさえ全て捉えているとは限らないが。そう考えると未だVR、3D、AI映像は目隠しをされて奇妙な映像を見せられているようなものなのかもしれない。実写と組み合わされたCGによるSF映画はディストピアではない良い未来を描けるだろうか。
いま映像を撮れるカメラは地球上のほぼ全員の人類が持っていて資本や国家や映画作家以外にも金と影響力や承認欲求のために配信したがってる人も多いようだが、それらの多くは未だ映像文法としては説明的な映像、命令を含んだ映像、あるいは衝撃の映像、わかり易い意味を求める映像、8Kの綺麗な映像からインスタの可愛い映える映像ーいわゆる画素数の多い映像、あるいはカラフルでキラキラしたものがもてはやされているようだ。ネットの世界、テレビの世界、映画の世界でも大方ではたくさん観られることを競っているのだが、それらも映像の質とはあまり関係がない。人の興味はそれぞれだろうが、それらは果てしない消費と認知労働になって来ている傾向はあるだろう。ひどい場合は洗脳や戦争に使われる。映像は無限に複製され拡散もして意識にも無意識にも入り込んでいる。
そして私たちの多くは意味する映像や映像による刺激に依存もし、ありとあらゆる映像と情報に取り囲まれている。どちらが主役か分からないような状況も垣間見られる。人間や社会の存在がそのようなありように影響を受け規定されてるところも出てきているのだ。右傾化したり歴史修正主義や陰謀論を唱えてる人々は氾濫する間違った情報で頭がいっぱいになってしまっている状態なのだが、議会性民主主義も寡頭制と利権と腐敗の温床になってしまっている。どちらの主張も映像も正しさを主張している。ポスト・トゥルースとはこのような状況だ。どこか出来の悪いコントの様相もあるが全く笑えないものだ。
もちろん映像も面白いものはあるし、気晴らし、暇つぶし、癒しになったりもする。その中から不意に思ってもみない世界が立ち現れるものもあるだろう。映画だけに限らないが、優れた映像は世界を別様にみせてくれたり、思考させてくれるところはある。実験映画も新自由主義下では失われがちな生の別の側面を見せてくれもする。実験映画にどこか通じている、失われつつある空想や、出来事の映像的な回想、意識の外で目を閉じてみる夢も映像なのか?人が観る夢も近年は新自由主義に影響されてもいるところもあるだろうが、夢においてやっとそこから自由である場合もあるかも知れない。
そうなると現代の症例や心理療法、精神分析や夢分析も以前と違うものになる筈だ。ラカンは消費と人間の成り立ちから現代を考察したがそれだけでなく、絶えざる自己価値化と商品化、劣等感、疎外感、万能感、労働と生活の維持、搾取や投資の期待と不安と罪悪感、自己啓発やマインドフルネス、症例の細分化と固定化なども伴った新自由主義の洗脳の分析なども必要になって来るだろうか。現在が飽和状態なら享楽や放蕩の次に、世界の新しい可能性が夢見られることもあるかも知れない。権力や国家と資本を退ける可能性を語ったグレーバーの近作と遺作(ウェングロウとの共著)のように。これら著作は歴史的、考古学的実証も伴いながら別の世界を想像させるのだが、新自由主義、金融化、専制国家が全般化している現在から見るとどこか夢の様だ。しかし悪い夢は資本主義と新自由主義と国家の方かも知れないのだ。ベンヤミンやドゥルーズや廣瀬純が掬ってみせるように映像を革命の可能性/不可能性として観ることもまた出来る。
巷に溢れている誰でも入手出来る映像を編集してみるだけでも何か気づきが生まれるかも知れない。ドゥボールのように縫合することなく、映画、ドキュメンタリー、広告、ニュース、SNS上の映像、映像を撮っている現場を撮った映像、スポーツ映像、海、山、海岸、川、魚、都市、森、草原、国境、砂漠、野生動物、昆虫、工場、住宅、公共施設、物流倉庫、物流現場、発電所、ダム、燃やされたり廃棄されるゴミ、海の中のプラチック、災害、宇宙、宇宙ゴミ、工事現場、車、列車、モール、スーパーマーケット、廃墟、墓、買い物する人々、学校、大学、塾、戦争や軍事実験、軍事訓練、軍事工場、サーバー、監視カメラが撮る映像ー防犯カメラの映像ー定点カメラの映像ードライブレコーダーの映像ーそれらを撮った映像、空撮ー空撮しているのを撮った映像、
労働者の映像、失業者の映像、ホームレス、NPO、バートルビーのような人々、やれることは何でもやる人、引きこもって抵抗してる人、子供、スマホを眺める人々の映像、余暇を楽しむ人々、ホームムービー、路上の映像、路上をうろつく人、ダンサー、泥棒や詐欺師、ディーラー、スラムの映像、アニメ、パラパラ漫画、走馬灯、音楽ライブ、遊園地、PVの映像、バラエテティ番組、各種ジャンクな映像、オリジナルドラマ、フェイク画像、AI画像、警察、ポルノグラフィ、自撮りされた映像、官僚、農園、コマーシャル、金融街や取引所、銀行、病院、精神病院、刑務所、入管、影響力を持ったセレブ達、養豚場の映像、屠殺場、
アナウンサーやコメンテーターやテレビタレント、太鼓持ちの映像、奴隷、タコ部屋、捨てられた人々、王、政治家、宗教団体、財界の人々、大物、フィクサー、スパイ、暗殺者、裏社会の人々、ゴシップ、直接的な暴力、効果としての暴力、知的労働、引きの映像とクローズアップ、ほとんど何も動かない映像、スローモーション、早送り映像、写真を撮った映像、言葉が映された映像、落書き、その他の映像、を切り刻んで並べ映像の氾濫、デジタルパノプティコンを外側から見てみよう。実際の編集が面倒なら
AIに頼んでみてもいいかも知れない、それも面倒なら脳内で編集だ。
常に働いていることばとシステムによる命令と同様に騙されにくくなり、映像におけるリテラシーが生まれたり、インフラや映像の配置のされ方への気づきが生まれるところがあるだろう。何かをコントロールしようとしてるものに気をつけよう。例えば災害や戦争の映像を共有し犠牲になっている人々に共感することは大切だが、それらの映像も全体のコントロールとしてのコンテンツ商品として扱われている面もまたあるのだ。メディアは復興を強調するが政府の動きが遅く被災地が放置されている状態は伝えない。
暴力の映像は暴力や暴力的な想像を呼び起こすこともまたある。これは小さな例だが逮捕されるまで存在を知らなかった私人逮捕系ユーチューバーと呼ばれている犯罪者の映像の暴力を観たときに想像される私人逮捕系ユーチューバーとカメラマンが反対にもっと酷い暴力を受ける生配信の映像。この酷い想像は昭和の詐欺事件、豊田商事事件の惨殺映像の影響を受けているのだろうが、この実際には存在しない映像の想像も暴力の連鎖だと言える。しかしこの映像も既に古いものになってしまっている、消費のスピードが早い。いまこの地域で想像されているのは‥
これが9.11やガザになると暴力は大きいものになる。その連鎖は間違ったものになることが多い。イスラエルのガザでのジェノサイドの引き金になっているハマスのイスラエルへの襲撃映像は、イスラエルの建国以来のパレスチナ、ガザにおける土地の収奪や暴力や虐殺や封鎖の映像を延々観た後に数秒間だけ観ないといけない、そしてすぐに現在のファシズムが吹き荒れるイスラエル国家と国民と軍のガザへのジェノサイドに切り替えられる。その映像の時間の長さの比率はとりあえず戦後からの死者数の比率にすべきだろうか。
イスラエルのユダヤ人はハマスのイスラエルへの襲撃映像をホロコーストの映像と並置するという間違った編集をしているのだ。そして第二次世界大戦時におけるドイツ国民や日本国民(現在は?)と同じファシズムに陥ってしまっている。なぜユダヤ国家はジェノサイドを反復してしまったのだろうか、そしてアメリカ国家は戦争経済と選挙のためなのかそれを支援してしまっている。先にランダムに編集してみた映像の氾濫から想像されるように、私たちもその流れに巻き込まれている。
正しく編集された映像を観ながら資本と国家と戦争のことも考えてみよう。ユダヤ人は中東に紀元前から住んでいたことがあったが、ホロコーストの悲劇の後に舞い戻り、住んでいるパレスチナ人の土地を奪う植民地国家を樹立してはいけなかったという場面から映像は始まるべきだろうか。比較的新しいイスラエルという国家を観察することで、そもそもの構成要素として暴力が含まれている国家というものの成り立ちを見ることも可能だろう。右傾化したイスラエルの行き着いた先を見て恐怖するのも大事かも知れない。今とは別の映像や物語もありえただろう、一時歩み寄りを見せたイスラエルとPLOの映像の続きとして、2つの民族が一つの土地で平和に暮らして行くという映像。それはまだ可能だろうか。
イスラエルのユダヤ人とアメリカはジェノサイドをすぐに止めないと自らの墓穴をさらに深く掘ることになるだろう。ラファへの攻撃は絶対に駄目だ。バイデン大統領は陰で悪口を言うのでなく行動を起こしてジェノサイドを止めないと影が薄いどころかネタニヤフと共に虐殺者として汚名を残してしまう。勇気を出して歴史に大きな足跡を残して欲しい、そうなれば選挙にもきっと勝てる。おとうさん頑張って!
映像におさらば出来ないならリュミエールやストローブ=ユイレ、ワイズマン、アケルマン、メカスの映像のようにシンプルなところまで立ち上って考えてみるのも可能かも知れない。リュミエールが世界に派遣した撮影隊はロシアやウクライナの人々、世界に離散したユダヤ人居住区や、平和に暮らしていたパレスチナの人々も撮っただろうか。
ワイズマンが撮るファシズムが吹き荒れる現在のイスラエル、あるいはアメリカ大統領選挙。大統領選はFBSを撮ったことのある想田チームの方がいいだろうか。スレイマンが撮る現在のガザとパレスチナ、スレイマンの近作は旅先の欧米が軍事化、商品化している日常を戯画化して描いていて戦争を予感させるものにもなっていたが、時期が違えばフランスの蜂起やデモを描いていただろうか。近年パレスチナ、イスラエルで多く撮られているドキュメンタリーを僕は多く観のがし後悔していて早稲田松竹かアテネフランセなどにかかれば観に行きたいと思っている。いいことではないが『娘は戦場で生まれた』や『シリア・モナムール』の様な映画も今後出て来るのか。ギダイはいまどうしているのだろうか、ゾアビはもうこの題材でコメディを撮れないだろう。などと考えてしまうのも映画を消費コンテンツとして考えてもいるところが出ている傾向があるかも知れない。
メカスはユダヤ人ではなかったが、ユダヤ人がリトアニア人やナチスに迫害されたリトアニアからドイツを経てニューヨークに移った。彼も晩年スキャンダルに巻き込まれている。リトアニアの反ユダヤ主義、反共主義を掲げる記事を書いていた雑誌に文化記事を寄稿していたというものだ。もちろんメカスはユダヤ人を差別するような文を書いていた訳ではないが、メカスは国内にもし残っていたら郷土愛的趣向や地理的条件、組織調整能力からリトアニアの国粋主義者になっていたかも知れない。だが彼はニューヨークに渡り何人でもないディアスポラとして優れた映画を撮り、映画コミュニティを作った。反発する映画作家もいたが、メカスはアンダーグラウンド映画文化を維持するためにコミュニティを運営し、強権的に振る舞っていた訳ではなさそうだ。
神話に従いパレスチナに2000年の年月を経て舞い戻ってしまったユダヤ人※も皆アメリカに行けば良かったのだろうか。アメリカの開拓時代のネイティブアメリカンの土地の収奪や奴隷制のあと未だ残る差別を忘れてはいけないのだが。ストローブ=ユイレには古代ユダヤ人や戦後のドイツやカフカを題材にした映画があり、アケルマンは戦後ニューヨークに渡ったユダヤ人の苦労と人生を描いている作品がある。
この文は映像の義務教育の様なものでやや四角くなった面があるかも知れない。長々ご苦労様というところだろうか。ブログによる広告?そう、これはどうしても問題になる人間の身体と肉体と心の話でもある。あるいは変なおじさんの承認欲求?そうかも知れない。
子供の頃だんだん難しくなってゆくそろばん教室に行くのが嫌になり、サボって舗装された山の農道でスケボーの練習をしていたら、よく知らないおばさんが「あんたのとこの子は山のそろばん教室に行きようるね」と母に嫌味な告げ口をした事があったのを、そろばんの始めの掛け声「ご破算をねがいましては」の意味が分からず「5は3をねがいましては」と長く勘違いしていた事と共に思い出す。そのおばさんに山で会ったことはないのだが、どこに耳と目があるか分かったものではない。楽しい山のそろばん教室のせいか算盤は3級に受からず4級止まりだった。
※古代ユダヤ人の離散というのは宗教上のフィクションで、現在のイスラエルのユダヤ人やアメリカに渡ったユダヤ人はユダヤ教徒のハザール人だと言われている。ユダヤ人、ユダヤ教徒が第二次世界大戦時にナチスに迫害、虐殺されたのは悲劇だが、そうなると古代ユダヤ人離散を理由にした現在のイスラエル国家の建国の正統性は無くなる。しかし国家はそれの如何を問わずそれを主張する。